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本、アニメ、ゲームなどの感想や、日々思ったことの備忘録。 チラシの裏、あるいは記憶の屑カゴ。

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空想のある教祖の演説

 諸君、みな一度は生の意義について考えたことがあるだろう。
 では、この中にその答えに辿り着いたものはいるだろうか?
 私はその答えを確かに発見したのである。
 生の意義とはすなわち死である。
 生の時間は死の瞬間のためにある。
 生の遼遠は死の久遠のためにある。
 生の苦しみは死による解放のためにある。
 本来、生の意義は死にこそあるのである!

 死こそが太陽なのである!
 死の明かりの照らす下で我々は生きているのである!

 諸君、考えてみてほしい。 死の訪れぬ生に意義などあるであろうか?
 人は、いや生命は、死が訪れることを知っているからこそ、その前に何ごとかを為そうとするのである。
 故に永遠の生など無と同じなのである。
 我々は死の照らす下で生きている。
 しかし、なぜか、度し難いことに死について考えを巡らすことを忌み嫌い、禁忌とする風潮が世間には蔓延っている。
 科学技術が発達したこの現代社会において自らの生きる意味について悩む者の多くが嘆かわしいことに生と死を切り離して考えている、死について考えないようにしているのだ。
 それこそが、生の道程で躓き、蹲り、歩みを進めることが出来なくなってしまう原因だというのにだ。
 だからこそ、諸君には死が身近な存在であるという実感を持って欲しい。
 死の存在を肌で感じながら生きて欲しい。
 その訪れの時になって気付き後悔しないように生を送ってほしいのだ。

 さぁ諸君よ、今こそ死について考えよう。
 死についての世間の誤った認識を改めてやろうではないか。
 より佳い生のために。
 死について考えることは、死に憧憬の念を抱くことは、死に郷愁の念を抱くことは決して悪い事でも間違ったことでもないのだ!
 ヒュプノスとタナトスは兄弟なのだから!

 いわば、生とは死の反作用なのである。
 死があるからこそ生があるのであって、断じてその逆ではないのだ。
 死こそ始まりなのだ。
 重要なのは死だ、死こそ要なのだ。

 さぁ諸君、今こそ声を上げよう 。
 より佳い生のために。
 私と共に、死を恐れ無意識に遠ざける俗物どもの目を醒ましてやろうではないか!
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僕の一日の記録(なんとなく思い付きで書いた小説のようなもの)

 僕の部屋の窓からはモン・サン=ミシェルが見える。
 東の空と海の境界が朝日の色を帯び赤紫のグラデーションを描く頃、グワァーンと聞きなれたサイレンの音が響く。
 このサイレンの音というのは、うちで飼っているペットの、そこらに落ちている大きめの石を重ねて作った人魚が日が昇るのを見て世界が動き出すことを嫌って発する鳴き声である。
 僕はこの声を聞くとトイレに行きたくなって目が覚める。
 だから仕方がないので用を足すためにわざわざ毎朝床から出る必要があるのである。
 ことのついでなのでこの時にペットの散歩も済ませるのだが、散歩に出かけるために毎朝顔を洗い歯を磨き髪を整え服を着替えることが日課となっている。
 身支度を終えると散歩に出るのだがペットと言ってもただの石ころの寄せ集めなので僕が一人で散歩をすることになる。
 今日も僕は一人で散歩をした。
 散歩というのは家の周りをふらふらとほっつき歩き海の上の寺院に足を運んでお祈りをし近場の喫茶店でモーニングを食べて家に帰るというのが恒例になっている。
 寺院に行くには海を渡らなければならないのだが、そこは連れている人魚が私を運んでくれるので問題はない。
 問題なのは、外に出るといつも何か忘れ物をしているのではないかと不安に襲われることである。
 だから僕は外で何度もポケットの中身を確認する。
 小銭と煙草とライターが入っているのを確認すると束の間安心するのだが人とすれ違うたびまた不安になるのである。
 というのもその視線が僕を嘲笑っているかのように見えるからである。
 そこで僕はひょっとすると服を着るのを忘れているのではないかとか頭に十円大の禿げができているのではないと心配になり窓ガラスなどに映る自分の姿を確認するのだが今度は果たして自分の目が見ているものは本当なのかとまた不安になるのである。
 そうして自分がなにを忘れているのかを考えているうちに寺院に到着する。
 その寺院では僕の妻が祀られているのでこうして毎朝会いに来て話をするのである。
 僕には妻以外に知り合いがいないので、これが一日の内で唯一言葉を発する機会であり彼女が僕の唯一の話し相手である。
 つまり、僕が言葉を交わすのは妻相手にだけであるので、彼女は間違いなく僕の妻なのであるがどんな容姿であるかを拝んだことは一度としてない。
 彼女がとても恥ずかしがりであることはよく知っているので仕方がない事ではあるのだが、それでも姿が見えないのでは不安になるのでときどきこう尋ねるのだ。
「君は本当にそこにいるのかい」
 答えは返ってこないのだが彼女が恥ずかしがりであることはよく知っているので構わず続ける。
「僕は、これほどなにもできないのにどうしてそこにいてくれるんだい。君は本当にそこにいるのかい。これからもそこにいてくれるのかい」
 するとやはり答えは返ってこないので僕は彼女がそこにいるのだと安心して、別れの言葉を告げたのち、明日また来るからと言って帰路に就くのである。
 帰りがけに喫茶店に寄り朝食を摂るのだが、ここのトーストには付けて食べるようにバターとジャムが出る。
 僕はジャムの甘いのがあまり好きではないのでバターだけを塗りジャムはそのまま食べる。
 甘くて吐きそうになるのでコーヒーを飲んで誤魔化すのである。
 しかしそれで気持ちが悪くなってしまうので食欲が失せてしまい今までトーストを食べられた試しがない。
 そもそもトーストは口の中がパサついてしまうので嫌いなのだ。
 また、付け合わせでサラダとゆで卵が付いているので、サラダは食べてゆで卵は人魚に食べさせてやろうといつもポケットに入れて持って帰るのである。
 家に着くと僕は楽な服に、つまりパジャマに着替える。
 このとき、なぜかいつも外に履いて行ったズボンのポケットに殻が割れてぐちゃぐちゃに潰れたゆで卵が入っているのだがきっと誰かが嫌がらせをしているのだろう。
 こういう輩はこちらが反応を示すと決まって喜ぶ傾向にあるので僕はこれを無視するのである。
 僕は家でどのように過ごしているかというと、うちの庭には石を無造作に積み重ねたような醜いオブジェのようなものがあるのだが、これがまるで生きているかのように見えてとても美しいのでこれを眺めて過ごすのである。
 気付けば日が落ちていて、僕はなんだか一日を無駄に過ごしたようななんとも虚しいような腹立たしいような気分になる。
 それでもあたりが暗くなった以上眠らなければならないので僕はとても焦ってしまう。
 床に入り、深呼吸をして羊を数えてなんとか眠ろうとするのだがなかなか寝付けないのが常である。
 そうして眠れないでいるとサイレンのけたたましい音が聞こえてきて僕は尿意を感じて目を覚ますのである。

人称関数についての雑記、というか書きなぐったメモ

これから書くことはまだ考案段階のもので、未完成どころかパズルのピースを作っているようなものである。
 なのでこれから真逆の方向に進むこともあるかもしれないし、加筆修正整理されて良い感じにまとまるかもしれない。最悪、飽きたらなかったことにするかもしれない、その程度の書きなぐりメモ。しかも書いた当人としても考え方の間違いとか推論や計算のミスだらけかも知れないと思ってる…。
 できれば人称関数についてはもっと色々考えて見たいと思ってる。
 ルーズリーフに書いてたんだけど失くしそうだから、ほとんどそのままこちらに写す。
 人称関数とか何か?というそもそもの疑問についてはまたの機会に譲りたい。

1. ∃xf(x)
  「私」の様相は常に一定ではない。  f(x)=¬const.
  変項xの取る値には幅(範囲)があり、その内の今成立している値により
  示されるfxが今、成立している「私」である。 f(x)は成立している「私」、xはその要素。
  f(x)は成立しているxの総体についての関数である。
  成立している変項Aについての人称関数f(A)は、同時に
  変項xのうち成立していないものを規定する。
     ∃xf(x)∧f(A)⊃(f(¬A)≡¬f(x))
      xの範囲によりf(x)の範囲も限界付けられる。 (f(x)の限界)
   
  (仮定1) ∃y(∀yf(y)⊃∀x¬f(x))⊃∀yf(y)≡NS
                    xの範囲に属さない要素yが存在するとき、そのyについてf(x)はナンセンス。


        f(x)の可能態f'(x)

「あなた、誰なの?」 『私』について。

放置しすぎたと思う。
流石にそろそろ更新しようということで、
今回はなんとなく頭の中にあるアイデアを書きなぐるだけにしたい。
まぁつまりいつも通りなのだけど…
なので、はっきりしない箇所や煮え切らない箇所があって気持ち悪さが残るかもしれないけど、
まぁその辺は追々考えて詰めて行くということで…



 「この世界には何人の水上由紀さんがいる?」
 これは「素晴らしき日々」の音無彩名のセリフ。
 「あなた、誰なの?」
 これはPerfect Blueのテーマでもあり未麻のセリフ。

 今回は『私』あるいは『あなた』、もしくは『彼』や『彼女』について。
 今プレイしている「虚ノ少女」の中でヒロインが他者を「取り込む」という表現があったので、
思い立った。

 この「取り込む」とは、憧れている『あなた』に私が成り代わるという行為。
理想の『私』を手に入れる行為。
 『あなた』=『私』を成立させる。

 Perfect Blueの中では元アイドルの女優である未麻のマネージャーが未麻にアイドルだったかつての自分を投影し、インターネット上で未麻になりすましていた。
 未麻のストーカーの男も未麻に理想を投影し、女優としての未麻を認めようとしなかった。
 未麻自身もアイドルとしての自分と女優としての自分の間で葛藤し精神的に不安定になっていた。
 作中のドラマで未麻に与えられたセリフ、「あなた、誰なの?」。
これは自分自身への問いかけとしても作品の中で一貫して効果を持ち続ける。



 「この世界には何人の『私』がいる?」
 きっと『あなた』の数だけ。
 『私』を知る他者と自分自身の数だけ。
 あなたの見る『私』、彼の見る『私』、彼女の見る『私』そして、私の見る『私』。
 それら全てが独立した『私』。
 では、私は解離した、分散した存在なのか?
 そうではない。
 もちろん他者や自らのバイアスや偏執により歪められた『私』は実際の私とは掛け離れた様相を見せることもあるだろう。
そのギャップにより問題が引き起こされることもあるだろう。
 しかし、そのように加工された『私』はもはや、今ここにいるこの私ではない。

 私は私でしかありえない。



心理学について 雑記その1

久しぶりの更新。
大学に入って半年ほど心理学徒として勉強してきて、
思いついたアイデアを書き殴ってみようと思う。

はじめに断っておきたいのは、これはあくまでアイデアの雑記であって、
検証も証明もしていない、いってしまえばただの思い付きである。
また、心理学についてと言っておきながら心理学の中身についてではない。
「”心理学”について 雑記」、ではなく「”心理学について” 雑記」である。
所詮はヴィトゲンシュタインかぶれのただの学部一年の戯言と思って読んで欲しい。
と、予防線を張りまくっておいて、感想、質問、批判などあれば大歓迎です!
では、書き殴っていこう。


・心理とは意識過程の集合である。

・心理とは概念に過ぎない。

・「心理」という語はその使用を持っているが、その語が指す物質的対象が存在するわけではない。

・意識過程と心理との関係は、実数とその無限集合の関係に似ている。

・心理的現象とは意志、あるいはその表象である。

・日常で私達は他者の意識を見ることは出来ない。
 そこで、他者の内に心理は存在しないと仮定する。
 しかし、他者の振る舞いを見ることは出来る。(泣く、笑う、怒るetc.)
 そして、それに対して何らかの適切だと思われる反応を返すことも可能である。
 つまり、私達が他者における心理と呼ぶものはその振る舞いに対する解釈である。
 (そしてこの心の働きに対する解釈は検証も反証も出来ない。)

・たしかに、ある脳波がある仕方で出ているので、こういう心理状態にある、ということは出来る。だが、ここで検証されたことは心の働きではなく脳の働きである。(脳の働きによって生じる怒りと、心の働きによって生じる怒りとを区別する。)

・先の例では心理的現象を脳の働きとして検証したが、意識過程については語られていない。

・心の働きとはこの意識過程のことである。

・問題の一つとしてこの意識過程はいつ生じるのか、ということがある。

・ある意識過程が他の意識過程を生起させることもある。

・意識には必ずその対象が存在する。(「xについて考える」、「xと思う」、「xなのが悲しい」etc.)

・「漠然とした不安を感じる」などの場合は、「”不安”を感じる」のであり、その”不安”は”漠然とした何か”を対象としている。
 また一方、「腹が減る」などというのは体感に対する感想という意識であり対象はまさに「腹が減る」ということである。(「空腹を感じる」)
 この例では、意識過程と対象(原因)が一致しているといえるのかも知れない。

・意識の対象が意識を生起する。意識過程は対象と意識の間に”在る”。

・脳の働きについての検証がしたことは意識についての”説明”である。対象や意識過程についての記述ではない。

・意識とその原因としての脳の働きとの関係を明かすのは脳科学の仕事であり、心理学の感心事ではない。

・ある心理現象を脳の活動として説明する場合を考える。
 「ある脳の状態の時、人は悲しさを覚える」と言えるだろうがこうも言える。
 「ある脳の状態の時、人は悲しさを経験する」と。
 前者での心理現象は「悲しい」と「覚える」であり、「覚える」の対象は「悲しさ」であるが、「覚える」の部分は後者のように心理現象によらない表現が可能である。しかし一方で、両者とも「悲しい」という語を意識として(あるいは意識過程としても)説明出来てはいない。この「悲しい」には対象が存在しない。つまり、「悲しい」という現象の原因としての脳の働きを説明しただけなのである。

・社会心理学についても同様のことが言える。
 「ある社会的状況(環境)において、人にはこういう心理が働き、こういう行動を取る」というような説明において、心理についての記述はまったく余計である。やはり、この場合も人の行動(それが心理の表出だとしても)と社会の関係について説明しただけで、意識過程については何も明らかに出来ていない。にもかかわらず、「これこれの心理によって」などと取って付けたように加えるせいで違和感が生じるのである。なので、ただこう言えばよい。
 「ある環境において人はこういう行動をとる」と。これに違和感を感じるならそれはこういう命題を見慣れていない為であろう。この命題は本質的に「力を加えると物体には加速度が生じる」と言うのとなんら変わりはない。

・意識過程は行動主義がブラックボックスのままで良いとしたまさにその部分である。

・行動主義の成果は、行動療法など、心理学の応用分野で役に立っている。つまり、意識過程についての解明は必ずしも必要と言うわけではないのである。

・では意識過程を解明しようとするのは何のためなのか。

・心理学は発展していない。心理学的命題(仮説や真らしい理論)の数が増えただけで、その命題を生み出す為の操作・方法つまり論理についてはおよそ静止したままである。また、その心理学的命題の多くは、心理についての研究によって得られたものではない。

・心理学の方法にはどんなものが適切なのだろうか。例えば、自然科学の方法論は心理学に適切なのだろうか。そもそも心理学の源流は哲学にある。経験科学として分化したのはヴントが実験心理学を創始した1879年である。

・知性とは心理の限界である。

・他者の心理について考えるとき、我々がその判断材料として前提するのは自身の心理あるいは心理に関する体験である。


とりあえず書き溜めてたものは以上です。
正直、自分でもまだ整理が出来てないので本当に書き殴りだし、半端な終わり方で申し訳ないです。
また、溜まってきたら雑記その2として書こうかなと思ってます。
ここまで読んでくれた人がもしいたらありがとうございました!
ではでは。
        
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