空想のある教祖の演説 未選択 2016年03月21日 諸君、みな一度は生の意義について考えたことがあるだろう。 では、この中にその答えに辿り着いたものはいるだろうか? 私はその答えを確かに発見したのである。 生の意義とはすなわち死である。 生の時間は死の瞬間のためにある。 生の遼遠は死の久遠のためにある。 生の苦しみは死による解放のためにある。 本来、生の意義は死にこそあるのである! 死こそが太陽なのである! 死の明かりの照らす下で我々は生きているのである! 諸君、考えてみてほしい。 死の訪れぬ生に意義などあるであろうか? 人は、いや生命は、死が訪れることを知っているからこそ、その前に何ごとかを為そうとするのである。 故に永遠の生など無と同じなのである。 我々は死の照らす下で生きている。 しかし、なぜか、度し難いことに死について考えを巡らすことを忌み嫌い、禁忌とする風潮が世間には蔓延っている。 科学技術が発達したこの現代社会において自らの生きる意味について悩む者の多くが嘆かわしいことに生と死を切り離して考えている、死について考えないようにしているのだ。 それこそが、生の道程で躓き、蹲り、歩みを進めることが出来なくなってしまう原因だというのにだ。 だからこそ、諸君には死が身近な存在であるという実感を持って欲しい。 死の存在を肌で感じながら生きて欲しい。 その訪れの時になって気付き後悔しないように生を送ってほしいのだ。 さぁ諸君よ、今こそ死について考えよう。 死についての世間の誤った認識を改めてやろうではないか。 より佳い生のために。 死について考えることは、死に憧憬の念を抱くことは、死に郷愁の念を抱くことは決して悪い事でも間違ったことでもないのだ! ヒュプノスとタナトスは兄弟なのだから! いわば、生とは死の反作用なのである。 死があるからこそ生があるのであって、断じてその逆ではないのだ。 死こそ始まりなのだ。 重要なのは死だ、死こそ要なのだ。 さぁ諸君、今こそ声を上げよう 。 より佳い生のために。 私と共に、死を恐れ無意識に遠ざける俗物どもの目を醒ましてやろうではないか! PR