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本、アニメ、ゲームなどの感想や、日々思ったことの備忘録。 チラシの裏、あるいは記憶の屑カゴ。

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人生の意味についての考察。芸術作品との類似について。

 なんとなく昔からの考えを今になって言葉にしてみたくなったので。
 読み物として。





 人生とは1つの作品である。1冊の本、1曲の音楽、1枚の絵画などのものに似ているよう感じられる。世界と生とは1つであり、また倫理と美とは1つである。

そして、また生が1つの作品であると捉えられた下では、生と美とは1つとなる

では、作品(生)の価値や意味とはどういうことなのだろうか。

例えば音楽の場合について考えてみよう。

旋律の芸術的・文化的価値、演奏の技術の素晴らしさ、観客に対し訴えかけるものと彼らの心を動かすこと。

あるいは、ある素晴らしい作品がこれまでの音楽史に影響を与え、後世において「そういうわけであの曲は価値があった」とか「音楽史を大きく変えたのがあの曲の意味だ」などと言われることもあるだろう。

また本や絵画などについても同様のことが考えられると思う。

ところで、このような価値や意味の言われ方もあるだろう。例えば「ここの旋律はこれこれを意味している、そして上手く表現されている」「ここでの転調は曲を盛り上げる意味がある」「ここの和音はこれこれな雰囲気の響きを持つのでしかじかの演出の意味がある」

ここで言われているのは、いわばミクロな次元(作中の内側)での話である。そして前に出した例はマクロな話である。

自分で誤解しないように書いておくが、ミクロコスモスとマクロコスモスは今は関係ない。

生(それ故、世界)にはそれを1つの総体として見るマクロ的な見方と、生(あるいは世界)の内での出来事に着目するミクロ的な見方とがある。

 音楽、そして本や絵画は、単なる旋律の寄せ集め、単なる文の寄せ集め、単なる記号の寄せ集めではない。数多の旋律やリズム、演出や作曲者の込めたメッセージや演奏者の技術や表現、それらが不可分に接合し調和することで1つの音楽となるのだ。そしてまた素晴らしい音楽はそれを聞く人の心を大きく揺さぶる。こうして音楽はそれを聞く人とそれ自身をも接合する。

 ミクロな見方において、音楽(その一部分)の意味や価値は語ることが出来る。マクロな見方においても同様、音楽の意味や価値は語れるものとしてある。

ではそれが1つの音楽の全てだろうか?いや、そうではない。

音楽の諸要素を接合・調和させるものとは、そして音楽の外のたとえば聞き手と接合させるものは何であるのか?

 音楽のうちに現れるものだけがその1つの音楽の全てではない。

1つのまとまりとして見られた音楽。

たとえば、そのタイトルは音楽のうちには含まれない。音楽を聴く者ももちろん音楽のうちには含まれない。そしてその全体としてのテーマも。

音楽は1つの世界である。

 

  「音楽のテーマは或る意味で命題である。従って論理の本質を知ることは、音楽の本質を知ることに通じるであろう。」

               Ludwig Wittgenstein『草稿』1915.2/7

 

 

  「3.141 命題は語の寄せ集めではない。――(音楽の主題が音の寄せ集めではないように。)」

Ludwig Wittgenstein『論理哲学論考』

 

 

 ところで、世界とは事実の総体であるが、それはまったく正しいと私は思っているが、そのような世界に対する理解は私たちを「摩擦のない世界」あるいはパスカルの言う「永遠の沈黙」へと導いてしまうよう思われる。そして、世界が事実の寄せ集めであるかのような認識に。

もっとも『論考の』6.373~6.3756.41などを参考にすれば、世界のうちでは全てが偶然であり、あらゆる出来事は意志から独立である。

しかし、意志は事実の寄せ集めである世界に調和をもたらしうる。

そのような意志こそ“生きる意志”であり、単なる事実の寄せ集めではなく調和した総体としての世界こそ“生きる意志で満たされた世界”、“幸福な世界”である。

 素晴らしい音楽とは、音楽のテーマが音の寄せ集めではないのと同様、テーマの寄せ集めではない。素晴らしい音楽とはそのテーマが美しく整列し調和のとれた音楽のことである。

テーマとテーマの繋がり、テーマ同士が相互に作用し、その連関のうちに一方が他方に意味を与え、さらのその意味を与えられたテーマが意味を与えたテーマを引き立て、そしてさらに別のテーマと関係し……(ここで言われる意味とは音楽のうちにあり、故に分析的に語りうるものであるが)というふうに1つ1つがすべて限りなく細かい網の目へと、巨大な鏡へと編み上げられていく。

そしてその構造が、一歩引いたところから全体として見られたときハルモニアを伴って映るのである。

網の目の全てを顕微鏡を使って調べ上げたところでハルモニアが観察されることはないだろう。

あるいは、こうも言えるかも知れない。ある素晴らしい音楽を調べてそのテーマや構成要素(演奏の技術なども含む)の意味を考えることはできる。しかし、それらを集めて音楽を作ったところで素晴らしいものとなる保証はない。美しさは分析に先立つ。そして、美しさそのものは分析によって明らかに出来ない。それでもあえて言葉にしようとするなら、それは、その音楽に関わるものの意志であろうか。

 

 作品とは作り出されるものである。それは作り手の投企(意志ではない)によって刻々と作り出される。善いものを作ろうとすることは、創作をしたことのある人には分かってもらえると思うが、大変な苦労を伴う。そして、その作品作りの全責任は作者にある。善い作品を作るためにまた別の作品を模倣することもあるだろうが、その解釈はやはり作者の責任で為される。また自らの作った、音楽なら、テーマの解釈もやはり作者が責任を負うところのものであって、その解釈は決して固定されたものではない。昨日、上手くできたと感じたフレーズも今日になってみるとつまらなく思ったりすることもある。

 こう考えてみると、やはり事実は意志とは独立なのである、その事実が含意しているように思われることも。故にそれが意味だと思われてしまう。たしかに、意味であることはそうなのだが、決して「生の意味とは何か」のような問いを立てようとするときに用いられるような仕方での意味ではない。(ところで、人は何故「意味」に納得するのだろうか)

 作品の全責任とはミクロな意味に留まらない。どのように作るかということだけでなく、それが何かに対しどのような影響を持つかについてもである。

 何1つ定かになっておらず、ただ責任だけがある。

 全てが意志から独立であり、何1つ確かなことはなくだた選択肢だけが、あるいは選択肢すら作らなければならないのかも知れず、その空虚な選択肢に投企しなくてはならない。

 足元に地面などなく奈落だった、というような気分になるかもしれない。

 世界は色彩を失ったのである。

 個々の命題は宙ぶらりんになり事実はまとまりを欠きバラバラになった。

 しかし、世界が色彩を失ったのなら、今度は自らの手で彩色しなくてはならない。

賽の河原で石を積み上げるように、事実を1つに積み上げなければならない。

ただの石ころを積み上げて信仰を示す行為のように。(恐山やイヌクシュク、オボなどを想像して欲しい)

 事実の寄せ集めに調和を与えること、モノクロの世界を彩ること、そうして生を作り出すこと、そこにおいて意志は姿を現す。

このような意志において、1つの作品として生を作り上げようとするとき、生と美しさとは1つになる。美しき生という1つの作品として。

 そして、美しき生はもはや価値や意味を必要としないであろう。価値や意味を求めるというテーマもまた美しき生は表現しているであろうから。だから、価値や意味を美しさが保証として要求することはないであろう。価値があるから美しいのでも意味があるから美しいのでもない。

 美しさもまた価値や意味であると言われるかもしれない。その通りである。

しかし、それは端的に存在しその説明に価値や意味を必要としないので価値や意味の文脈で語る必要もないのだ。

 美しき生は保証を必要としない、ただすべきことは素晴らしき日々を生き作品を作り上げることである。

 意志と共に生きること、それが示すものがハルモニアとなり、素晴らしき日々となるであろう。

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