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本、アニメ、ゲームなどの感想や、日々思ったことの備忘録。 チラシの裏、あるいは記憶の屑カゴ。

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倫理について、雑記

我々は倫理と言うことで、どういうものを想定しているのか。

それがもし、我々が従うべき普遍的規則のようなものであれば、では我々が非倫理的に行為するとはどういうことか。

非論理的に思考することは、まさにその論理によって、論理的に不可能であるが、非倫理的に行為することは可能である。

それがもし不可能であるならば、そのとき倫理は決定論の歯車の1つとなり自由意志を否定するものとなるだろう。

 では、ある行為が倫理的でないと言われるのはどのような時か。

明らかに、行為の結果について言われているのではない。

では、当の行為について言われているのか。しかし、行為そのものは事実でしかない。

「私が右手を上げた」としよう。

この事実の一体どこに倫理的判断を下す余地があるのか。

しかし、そのときに、私の目の前には虐待を受けていた子供がいたとしよう、そして私はそのことを知っていて右手を上げて見せたとしたらどうか。

この場合、私は倫理に反する行為をしたと言われても仕方のないことである。

では、倫理は文脈に対して言われるのだろうか。

 そうだとするなら、倫理とは、個々の文脈を越えて存在できないよう思われる。

故に、倫理に関して意味抜きされた構文論的体系を考えることは出来ない。

では、倫理は慣習の一種か。ある事実とそれが生じた文脈に対して、経験的に、それが倫理的かどうかの判断が下され、またその蓄積により体系を成しているのか。ではその判断、とくに初めの一度目におけるその判断の基準とは何か。まさにそれこそ倫理とは何かということで問われている当のものではないのか。

また倫理が経験的なものなのであれば、それは実験によって明らかにされる性質のものだろう。では、実験により新たな倫理が発見されるような場合があるのだろうか。

あるいは、倫理とは、何か心の働きの一種なのか。

ならば、我々は、どのような事実と文脈の組に対して、どのように感じるかを予め決めているとでも言うのか。むしろ、どのように感じるかということに方向を与えているのが倫理ではないのか。

 

 ところで、倫理について立てられた命題と事実について立てられた命題は異なる。

倫理は事実ではなく、また事実に還元も出来ない。

そもそも、倫理について命題を立てることなど出来ない。

もし、倫理について、それがいかなるものかを語る命題があったして、我々はその有意味性を理由に、その命題を認めないだろう。

有意味に語られるなら、それは事実である。

倫理は有意味に表現されえない。それが倫理の形式である。

いや、我々は倫理の形式として事実を表現するのとは異なるものを求める、というべきか。(この“求める”とは心理的なものか?だとすると……)

 

では、倫理によって立てられた命題はどうだろうか。

これもやはり命題とは、少なくとも事実を同じ意味;真偽を持つという点では言えないだろう。それは命題ではなく命令である。

 

 我々は倫理を求める。事実とは全く異なるものとして。

喉の渇きを治めるために水を求めるのとは違い、世界を超えたところに、世界に調和を与えるものとして、その存在を求める。(もちろん、この文は何も語れていない)

故に、同時に普遍性も求める。

このことが、倫理的に正しいとはどういうことか、という問いが一体何を説明すれば正当に納得されるのか分からない所以である。

どうすれば説明したことになるのか。それは、言語によって説明された時点で、我々が倫理の形式として要求したものと反するため、説明が正当に終わりを迎えることはない。

倫理は言い表しえないが、我々はそれを求める。その意味で、倫理は超越論的である。

 

 

汝の欲する所を為せ、それが汝の法と為らん。

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