他人は歯痛を経験する、と言えるか。2 未選択 2013年08月23日 ヴィトゲンシュタインの「青色本」について。 前回の続き。 後半についての感想に入る前に、全体として私が感じた印象をいくつか述べたいと思う。 まず、私はヴィトゲンシュタインが科学と哲学を差別化、と言うと少し語弊があるかもしれないが、その方法論;命題の検討のしかた、について科学と哲学は異なるということを強調しはっきりさせたがっていたように思う。本文から何箇所か引用させてもらうと、 前半p.18「(前略)というのは、思想と思考について我々に奇妙だと思わせたものは、それが我々にはまだ(因果的に)説明できない奇異な結果を生む、ということでは全然なかったのである。換言すれば、我々の問題は科学的問題ではなかったのであり、ただ我々には問題として見えた混乱だったのである。」や、 p.19「(前略)そのことのゆえに、心を奇妙な種類の媒体と呼ぶことはかまわない。しかし、心のこの側面には我々は関心をもたない。その側面から生じる問題があってもそれは心理学の問題であり、その解決方法は自然科学の方法である。」 また、ここが重要だと思うのだが、同じくp.19少し長くなるが、「(前略)時間が何か奇妙なものに思える時。ここには隠された物、外から見ることはできるがその中をのぞきこむことのできないものがある、という考えに何にもまして強く誘われる。しかし、そんなものがあるわけではない。我々が知りたいのは時間についての新事実なのではない。そして我々の問題となる事実は全部あけっぴろげに目の前にあるのだ。我々を煙に巻くのは名詞”時間”の神秘的な使われ方なのである。だがこの語の文法をよく見てみれば、人類が時の神を考えたという事は、否定の神や選言の神を考えるのに劣らず驚くべきことだと感じよう。」 この辺(p.17~p.20)でなされた議論を拙いながらまとめさせてもらうと、 考えようとする対象が複雑(心や時間のような複雑さ)な時、私たちはその本性が何かと困惑するが、哲学においてそれはただの混乱である。知りたいのはその対象に関する新事実ではなく(これは科学の扱うべき問題)、私たちが問題にすべきことは全て既知であり目の前にある。名詞の神秘的な使われ方が私たちを混乱させているだけである。 というようなことだろうと思う。 科学と哲学の住み分け、というような議論はうろ覚えではあるが「論考」おいてもなされていたように記憶している。ヴィトゲンシュタインは誤った語の使われ方と同様、科学と哲学の方法論の混在、正確に言うなら科学的命題における文法と哲学的命題における文法の混在;区別せずに扱うこと(そういう意味ではやはりこれも誤った語の使われ方と言える気がする)が哲学的困惑を引き起こすと考えたのだろうと思う。 さらに、ダメ押しのごとく後半p161では物理的事物についての言明と、それを感覚与件で記述する言明を比較している場面において、 「(前略)奇妙なことだが、この単なる新しい語法の導入にまどわされて人は、「感覚与件が存在する」と信じるということが何か「物質は電子からできていると信じる」と言うのと同じとでも言うように、新しい対象、世界の新しい構成要素を発見したと思い込んだのである。(後略)」とある。 次にこれは野矢茂樹さんの解説でも言われているのだが、著者の葛藤を随所に読み取ることができると思う。 何かの評論で読んだのだが、それには意訳すると「ヴィトゲンシュタインにとって哲学とは生きるための戦いであった」という旨のことが書かれてあった。(余談だが彼は自殺願望者であった。その彼が前期思想において、主体否定テーゼ、独我論の末にたどり着いた結論、「語りえぬことには沈黙しなくてならない」「人よ、幸福に生きよ!」に私は魅力を感じてしょうがない。)「青色本」では「論考」(特にその独我論)を批判するような部分も見受けられるが、まさにそこに生きるための戦いとしての哲学、野矢茂樹さんの言葉を借りれば「治療」が読み取れて興味深い。 ただし、これも解説で言われていることだが、独我論の息の根を止めるにはこの本の議論だけでは十分ではなかった。 そして私見だが、独我論を批判するつもりがむしろ擁護しているように感じられる部分もあったように思う。 だが、その分著者の考えの変遷のようなもの、また息使いのようなものを感じることができ、他にはない面白みがあると言えるだろう。 (これまた余談だが、うち数箇所で、私としては「論考」において彼が要素命題に対する相互独立性の要請(実はこれは誤りで彼自身後に認めている、とのこと)について説明する際のような、失礼を承知で言うと、苦し紛れな感じの議論展開に感じられて、やっぱりヴィトゲンシュタインだと思った。) さて、前置きが長くなってしまったが、後半部分、独我論についての感想に入ろう。 その前に一つ謝っておきたいのが、後半部分については正直理解度がかなり怪しく、責任のある発言は現時点ではできそうもない。なので本文から印象に残った箇所を3つほど引用しつつ、そこについてのみの感想にしたいと思う。 まず1つ目。p.151「チェスをやるとき或る人が白のキングに紙の冠りをかぶせる。それでその駒の動きに変わりはないのだが、私に言うには、その冠りはそのゲームで規則に表現できないある意味を彼に持っているのだ、と。私は答える。「それで駒の動きが変わるのではない限り、私はそれを意味とは呼ばない」」。 私はこれは、端的に独我論に意味はないと言っているのだと解釈した。 独我論を採用している人が、私の痛みに対してそうでない人よりも共感を示してくれないということは現実にはない。そんなことが本文で述べられていた。 しかし、どうだろう。これで独我論を否定できたか、というとそうではないと思う。 私には「駒の動きが変わるのではない」ということが「独我論に意味がない」ということが却って、独我論をほかの世界の見方と同列に、整合性があるものだと言ってしまっているように思えるのだ。 2つ目。p.163~p.164「私が独我論的発言をしたとき、(…)指すものと、それで指されるものとを切り離せないように結びつけてしまい、そのため指差しから意味を奪い去ることになったのである。いわば歯車その他で時計を組立てたが最後に文字盤をその針に固定して針と一緒に廻るようにしてしまったのである。こういうようにして独我論者の「これが本当に見られるものである」は或るトートロジーを思わせるのである。」 p.142「次の言い方が独我論を最もよく表現しているように思われる。すなわち、「何が本当に見られようともそれを見るのは常に私である」。この表現で気になるのは「常に私」という句である。常に”誰”なのだ。」とも言われている。 ここでいう「私」とはその用法として特定の誰かを指すものではない。「私は痛い」でも同じことである。 そして、「私」は特定の誰かの体を指示するわけではないのだから、体に或る記述を代入することもできないのである。 前の記事で書いたとおり、痛む場所を指して「痛み」という名称を与えただけでは意味をなさない、用法をもって使われて初めて意味をなす、生きた記号となる。生きた記号は真であれ偽であれナンセンスではないという点で意味を持つ。 だが、自分の視野に対して「これが私に見えているものだ」と、もちろん独我論的に、言うとどうなるだろう。この時、非独我論であれば、上のセリフを例えば背後を指差しながら言った場合、偽となる。しかし、独我論では、偽となりえない。その可能性は始めから用意されていない。その発言をした当人以外にはその真偽を判定できないのだから。故に同語反復的にナンセンスなのだろうと思う。 でも、どうなのだろう、これは私自身かなり独我論者みたいなところがあるから、穿った見方をしているのかもしれないが、きちんと独我論の文脈における語の用法を説明することさえできれば、独我論を採用することに問題はない、と言っているようにも聞こえてしまうのだ。 前半部分の水脈占いの例にもあったことだが、特異な語の使い方であっても、双方がそれを了解していれば言語ゲームは成立するのだから。 最後の3つ目。これはなんというか、反省を促されたフレーズである。(私は哲学者ではないが……)もはや感想は不要と判断し引用だけに止めさせてもらって、それを以てこの記事を締めようと思う。 では終わりに。こんな長文に付き合ってくれた人がいたなら、心から感謝したい。 コメント、感想、質問やここは違うだろというような指摘などあれば是非教えてもらえると嬉しい。 p.136「哲学的問題には常識に依る答はないのである。哲学者の攻撃から常識を守る道は彼らの困惑を解消してやることしかない。つまり、常識を攻撃したい誘惑から彼らを癒してやることであって、常識の見解を繰返すことではない。」 PR
他人は歯痛を経験する、と言えるか。 未選択 2013年08月23日 ヴィトゲンシュタイン「青色本」読了。 初読なのでいろいろ的外れなことを言ってしまうかもしれないが、 初読なりに感想をまとめてみようと思う。 まず、この本の内容を大雑把に説明すると、 前半半分強で心的な言及(「期待する」「信じる」など)のある命題についての文法; 文の中での語の使われ方によって引き起こされる哲学的困惑について説明があり、 後半半分弱では「個人的経験」について考察することで独我論について論じている。 青色本は著者の後期思想に属するものであり、有名な「言語ゲーム」も導入されている。 元々、ヴィトゲンシュタインが講義用に作成して学生に読ませていたものなので、 読んでいると少し講義を受けているような気分になれた。 そろそろ本文に触れていこうと思う。 この本は「語の意味とは何か。」という問いかけから始まる。 そして「意味とは何か」すなわち「意味の意味とは?」という問いに答えるために、 「xの意味」とは「xの説明」によって与えられる(まさに説明されたことがxの意味) ということから、まず「語の意味の説明」についての考察が導入される。 あまり長くなっても読む気力を失せさせてしまうと思うので、ものすごく雑にまとめさせてもらうと、その流れで言語ゲームの考え方が登場してくる。 言語という記号を用いて私たちの日常で実際に行われるやり取り、という色合いの概念、 それが言語ゲームだと私はとりあえず現段階では理解している。(断言するほどの自信はない) ただ、それを裏付けると言ってしまってもいいのかは悩むところだが、本文中に 「しかし、記号の生命であるものを名指せと言われれば、それは記号の使用(use)である と言うべきであろう。」とあるので私はこの解釈をしたのだと根拠を明かしておくことにする。 そして、ここで印象深く思ったのは、著者が先の引用部分について、犯しがちな誤りとして 「記号の使用」を記号と”並んで存在しているもの(=随伴する神秘的な領域にある何か)”と考えて探すことだとしている点である。 さらに彼はこのことの原因として「名詞に対応する物」を求めること(例、”無機質”な記号にイメージを付け加えること)だと述べている。 ここが彼の前期思想の代表作「論理哲学論考」での意見と真逆で面白い。 野矢茂樹さんによる解説を参照してまとめさせてもらうと、 「論考」では、言葉は世界との関係で意味を与えられる。「x」という語の意味は、xという対象との関係で与えられ、私たちはそうして意味付与された言葉を使うのであって、私たちが言葉を使うことが語に意味を与えるわけではない、という立場なのである。 (私は「論考」にどっぷり浸かりすぎている節があるので実はこの辺結構混乱している。 対象を基に論理空間を張ることは出来るが、それで語に意味を与えたわけではないという解釈で良いのだろうか?) ただ、生きた命題と死んだ命題の違いとは?という問なんかは議論の内容こそ「論考」とは違えど、その問いかけ自体はなんだか「論考」を彷彿とさせてやっぱりヴィトゲンシュタインだな、と感じた。 と、ここまで青色本の前半部分について感想をまとめて来たが、これ以上は長くなりすぎるので、後半部分についての感想は次の記事でまとめることにしようと思う。