他人は歯痛を経験する、と言えるか。 未選択 2013年08月23日 ヴィトゲンシュタイン「青色本」読了。 初読なのでいろいろ的外れなことを言ってしまうかもしれないが、 初読なりに感想をまとめてみようと思う。 まず、この本の内容を大雑把に説明すると、 前半半分強で心的な言及(「期待する」「信じる」など)のある命題についての文法; 文の中での語の使われ方によって引き起こされる哲学的困惑について説明があり、 後半半分弱では「個人的経験」について考察することで独我論について論じている。 青色本は著者の後期思想に属するものであり、有名な「言語ゲーム」も導入されている。 元々、ヴィトゲンシュタインが講義用に作成して学生に読ませていたものなので、 読んでいると少し講義を受けているような気分になれた。 そろそろ本文に触れていこうと思う。 この本は「語の意味とは何か。」という問いかけから始まる。 そして「意味とは何か」すなわち「意味の意味とは?」という問いに答えるために、 「xの意味」とは「xの説明」によって与えられる(まさに説明されたことがxの意味) ということから、まず「語の意味の説明」についての考察が導入される。 あまり長くなっても読む気力を失せさせてしまうと思うので、ものすごく雑にまとめさせてもらうと、その流れで言語ゲームの考え方が登場してくる。 言語という記号を用いて私たちの日常で実際に行われるやり取り、という色合いの概念、 それが言語ゲームだと私はとりあえず現段階では理解している。(断言するほどの自信はない) ただ、それを裏付けると言ってしまってもいいのかは悩むところだが、本文中に 「しかし、記号の生命であるものを名指せと言われれば、それは記号の使用(use)である と言うべきであろう。」とあるので私はこの解釈をしたのだと根拠を明かしておくことにする。 そして、ここで印象深く思ったのは、著者が先の引用部分について、犯しがちな誤りとして 「記号の使用」を記号と”並んで存在しているもの(=随伴する神秘的な領域にある何か)”と考えて探すことだとしている点である。 さらに彼はこのことの原因として「名詞に対応する物」を求めること(例、”無機質”な記号にイメージを付け加えること)だと述べている。 ここが彼の前期思想の代表作「論理哲学論考」での意見と真逆で面白い。 野矢茂樹さんによる解説を参照してまとめさせてもらうと、 「論考」では、言葉は世界との関係で意味を与えられる。「x」という語の意味は、xという対象との関係で与えられ、私たちはそうして意味付与された言葉を使うのであって、私たちが言葉を使うことが語に意味を与えるわけではない、という立場なのである。 (私は「論考」にどっぷり浸かりすぎている節があるので実はこの辺結構混乱している。 対象を基に論理空間を張ることは出来るが、それで語に意味を与えたわけではないという解釈で良いのだろうか?) ただ、生きた命題と死んだ命題の違いとは?という問なんかは議論の内容こそ「論考」とは違えど、その問いかけ自体はなんだか「論考」を彷彿とさせてやっぱりヴィトゲンシュタインだな、と感じた。 と、ここまで青色本の前半部分について感想をまとめて来たが、これ以上は長くなりすぎるので、後半部分についての感想は次の記事でまとめることにしようと思う。 PR