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本、アニメ、ゲームなどの感想や、日々思ったことの備忘録。 チラシの裏、あるいは記憶の屑カゴ。

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倫理について、雑記

我々は倫理と言うことで、どういうものを想定しているのか。

それがもし、我々が従うべき普遍的規則のようなものであれば、では我々が非倫理的に行為するとはどういうことか。

非論理的に思考することは、まさにその論理によって、論理的に不可能であるが、非倫理的に行為することは可能である。

それがもし不可能であるならば、そのとき倫理は決定論の歯車の1つとなり自由意志を否定するものとなるだろう。

 では、ある行為が倫理的でないと言われるのはどのような時か。

明らかに、行為の結果について言われているのではない。

では、当の行為について言われているのか。しかし、行為そのものは事実でしかない。

「私が右手を上げた」としよう。

この事実の一体どこに倫理的判断を下す余地があるのか。

しかし、そのときに、私の目の前には虐待を受けていた子供がいたとしよう、そして私はそのことを知っていて右手を上げて見せたとしたらどうか。

この場合、私は倫理に反する行為をしたと言われても仕方のないことである。

では、倫理は文脈に対して言われるのだろうか。

 そうだとするなら、倫理とは、個々の文脈を越えて存在できないよう思われる。

故に、倫理に関して意味抜きされた構文論的体系を考えることは出来ない。

では、倫理は慣習の一種か。ある事実とそれが生じた文脈に対して、経験的に、それが倫理的かどうかの判断が下され、またその蓄積により体系を成しているのか。ではその判断、とくに初めの一度目におけるその判断の基準とは何か。まさにそれこそ倫理とは何かということで問われている当のものではないのか。

また倫理が経験的なものなのであれば、それは実験によって明らかにされる性質のものだろう。では、実験により新たな倫理が発見されるような場合があるのだろうか。

あるいは、倫理とは、何か心の働きの一種なのか。

ならば、我々は、どのような事実と文脈の組に対して、どのように感じるかを予め決めているとでも言うのか。むしろ、どのように感じるかということに方向を与えているのが倫理ではないのか。

 

 ところで、倫理について立てられた命題と事実について立てられた命題は異なる。

倫理は事実ではなく、また事実に還元も出来ない。

そもそも、倫理について命題を立てることなど出来ない。

もし、倫理について、それがいかなるものかを語る命題があったして、我々はその有意味性を理由に、その命題を認めないだろう。

有意味に語られるなら、それは事実である。

倫理は有意味に表現されえない。それが倫理の形式である。

いや、我々は倫理の形式として事実を表現するのとは異なるものを求める、というべきか。(この“求める”とは心理的なものか?だとすると……)

 

では、倫理によって立てられた命題はどうだろうか。

これもやはり命題とは、少なくとも事実を同じ意味;真偽を持つという点では言えないだろう。それは命題ではなく命令である。

 

 我々は倫理を求める。事実とは全く異なるものとして。

喉の渇きを治めるために水を求めるのとは違い、世界を超えたところに、世界に調和を与えるものとして、その存在を求める。(もちろん、この文は何も語れていない)

故に、同時に普遍性も求める。

このことが、倫理的に正しいとはどういうことか、という問いが一体何を説明すれば正当に納得されるのか分からない所以である。

どうすれば説明したことになるのか。それは、言語によって説明された時点で、我々が倫理の形式として要求したものと反するため、説明が正当に終わりを迎えることはない。

倫理は言い表しえないが、我々はそれを求める。その意味で、倫理は超越論的である。

 

 

汝の欲する所を為せ、それが汝の法と為らん。

科学哲学について基礎的事項まとめ(哲学入門復習)

これは、要望があってツイッターにて行なった科学哲学体験版の転載である。



まず科学哲学、略して科哲とか言われる分野だけど、科学哲学って何さ?
科学なのか哲学なのかはっきりしろよとか、科学と哲学って別物なのか?とか、初めて聞く人は疑問に思うと思う。
ざっくりいえば、科学について哲学するから科学哲学。
でもね、さっき言ったように「科学なのか哲学なのか…」とか「科学と哲学は別物なのか」って疑問にこれでは答えてることにならないよね。
その為には「科学とは何か」「哲学とは何か」ってのをはっきりさせないといけない。
で、その前者の問い「科学って何だよ?」ってのを問題にするのが科学哲学でもある。
だから、とりあえず、最初の一歩はこの問いから始めてみることにしよう。
科学って何だよ?
そんなの今更問うようなことじゃないって思われるかもしれない。
私たちは日常、普通に生きていく中で「科学」って言葉を当たり前のように使っている。
でも、あえて考えてみよう。
「科学ってなんだよ?」
どう答えられるだろう?
そりゃ、物理学とか化学とかじゃね?
確かにそうだ。
物理学や化学、生物学、そういったものは立派な科学と言えるだろう。
じゃあ私たちが日常「これは科学的である」っていう場合、それは物理学的であることや生物学的であることを指して言っているのかな?
じゃあさらに進めて、科学って言うのはそういう、諸領域の寄せ集めなんだろうか?物理学や生物学やそういう~学みたいなのの総体が科学?
だとすると、ちょっとおかしなことになる。
じゃあ、物理学が科学に属しているってどうして言えるのさ?ってこと
科学が~学の総体なら、じゃあ~学ってのが科学かどうかはどう判断すればいいのか?
科学ってものの個別的じゃなくて包括的な説明が必要になるわけ。
「科学って何だよ?」って問いに対して、~は科学であるということはできる。
けど、じゃあ科学は何かってことには依然として答えを与えられていない。
そこでじゃあ、物理学でも生物学でもなんでもいいから実際に科学と呼ばれている例について見て、それらに共通するものはなにか考えてみよう。
すると多分、一番最初に考えられるのは、それが事実に対する観察や実験に基づいていて合理的・客観的であるとされるもの、ということだろう。
例えば「カラスは黒い」という命題を考えてみる。
一羽の黒いカラスを見ただけでは「カラスは黒いというのは出てきそうにない」
けど、10羽20羽、見るカラス見るカラス全部黒かったら?
多分、次に見るカラスも黒い。と言いたくなる。
次に見るカラスもその次に見るカラスも100羽目のカラスも101羽目のカラスも黒い。
従って、全てのカラスは黒い。
こういう推論の仕方を(枚挙的)帰納法という。
科学って言うのはこういう推論に基づいてされていると思われる。
データを集め、個別の事例を枚挙してより一般的な結論を導き出す。
けどさ、疑問に思うかもしれない。
なんで個別の事例を集めてくれば一般的な命題に至れるのか?って
今まで見てきたカラスは高々有限に収まる数でしかない。
1万羽だろうと1億羽だろうとそれは有限。
じゃあ1億1羽目のカラスが、そうね、赤色じゃないなんてなんで言えるんだろう?
カラス1は黒い、カラス2は黒い、カラス3は…というようにいくら観察を重ねても、完全な一般化には至れない気がする。
全てのカラスは黒いというように(これを全称量化という)、有限個から全てに当てはまる命題を導くにはどうしても飛躍が生じてしまう。
例えば、太陽はこれまでずっと朝になると昇って来たからと言って、じゃあ明日も、X+1回目もちゃんと昇ってくるとは限らない。
無理矢理な話、なんか未知の力場の作用でいきなり太陽が爆発して消えてしまうかもしれない。
絶対そうはならないとは(まぁ実際ならないだろうけど)言えそうにない。
まぁつまり帰納主義の立場ではいくらデータを集めてきても証明したい命題はいつまでたってもその正しさを示せないということになる。
ちなみに、この帰納法って言うのはある前提を暗黙の内に了解して成り立っている。
その暗黙の了解というのは「自然の斉一性の原理」と呼ばれる。
自然の斉一性の原理っていうのはざっくりいえば「これまでそうであってことは、次もおそらくそうなるだろう」あるいは「これまでそうであったことは、次もおおよそ似たような形で現れるだろう」という考え。
この斉一性の原理があるから、帰納法は成り立っている。
だって「これまでそうだとしても次は全く違うことが起こるだろう」なんて考えてたら今までのカラスが黒かったからって次も黒いなんて推論は出てこない。
でもさ、じゃあこの斉一性の原理はなぜ成り立つのか考えてみよう。
「これまでそうであったことは次もおそらくそうなるだろう」ってのはこれまで生きてきて「これまでそうであったことはだいたい次でもそうであった」経験があるから。
これってさ?帰納法のしてたことそのまんまじゃない?
「これまでそうであったことは次もだいたいそうだった」っていう複数かつ有限個の経験から一般化して(ここで帰納法が使われてる)自然の斉一性原理は導かれてる。
けどさ?これはおかしいんだ。
帰納法が成立するための条件だった斉一性の原理が成立するための条件が帰納法で…
ほら、無限後退する。
じゃあさ、帰納法以外に取れる立場はないのか?って、まぁ考えたくなるよね。
そこで出てくるのがカール・ポパーの反証主義。

さてこの反証主義の考え方だけど、
帰納法ではいくら多くの事例を集めてもそれが有限個である以上、全称量化できないって問題があった。
反証主義は逆に考える、全称命題を否定するには1つの事例があれば可能だと。
100羽のカラスが黒いからと言って101羽目のカラスも黒いとは言えない。「全てのカラスが黒い」とは言えない。
けど、100羽の白鳥が白くても、たった1羽でも黒い白鳥が見つかれば、「全ての白鳥が白いわけではない」という主張は出来る。
ちょっと記号を使って表してみると、
∃αFαをいくら集めても∀xFxは論理的に証明できなくても、∃a¬Faから¬∀xFxは論理的に帰結できる。ってこと。
ここは読み飛ばしてもらって構わない。
事例を集めて「全ての~は~である」とは言えなくても、一つの反例から「全ての~は~というわけではない」とは言えるってこと。
これを反証という。
で、科学の本質は帰納法による推論よりむしろこの反証であると見る立場が反証主義。
じゃあ反証主義者はどういうふうに科学的探究を行うのか?その方法論は?というと、仮説演繹法ってのを使う。
まず目の前で起こっている現象を説明する為の仮説を考えるんだ。(この手順をアブダクションという)
ざっくり言えば、上手く説明できそうな理屈を考える。
ここはもう、極端にいえばメチャクチャなことを言ってみてもいい。
実は天球の方じゃなくて地球の方が回ってるとか、光速度は不変であって時空間の方が曲がってるとか、そんなスケールのことを言ってみても良い。
そしたら、今度はそれをチェックしてみる。本当にそうかって。
アブダクションで立てた仮説。
そしてある初期条件の下、その仮説が正しいとするならある予測が導かれる。
その予測が正しいかどうかを見る。
正しければ仮説は生き残り、間違っていれば仮説は反証される。
具体的に見てみよう。
例はプリントからまんま借りてきて、仮説「コウモリは音波で周囲を感知している」としよう。
で、初期条件を「コウモリの声帯を摘出して音波を出せないようにした」とする。
そこから導き出される予測は、「コウモリは飛べなくなる」だ。
で、実際飛べなければ、仮説は生き残る。
実際には飛べたなら、反例が示されたわけだから仮説は反証される。
こうして反証されず生き残った仮説を(暫定的に正しい仮説として)科学理論とするってのが反証主義ってわけだ。
じゃあ実際の科学はさ、そうして一つでも反例が見つかれば自分の理論を潔く捨てて来たんだろうか?
答えはNoで、実際にはそう単純じゃないらしい。
科学史を研究したトーマス・クーンはそう言っている。

さて、反証主義の問題点だけど、科学は実際には反例が示されたところでそう簡単には仮説を手放さないらしいということが指摘されている。
例えばさ、天王星の運動の理論値とのズレと海王星の発見なんてのが好例として挙げられる。
天王星が発見されたとき、その運動はニュートン力学から予測されるものとは異なるものとして観察されていた。
反証主義的に言えば、ニュートン力学が仮説で、初期条件が天王星の質量、位置、向きとか諸々、でそこから導かれる予測と実際に観察された運動にはズレがあった。
これは反例であるわけだから、仮説は、すなわちニュートン力学は反証されて捨てられなければいけない。
けど、実際はそうはならなかった。
それどころか、反例が示されたにも関わらず、「いや、天王星の近くになんか未知の惑星があって運動の軌道をずらしてるんだよ」とか滅茶苦茶なことを言い出してニュートン力学を擁護しようとする奴まで出てくる始末。
そして、ソイツの言ったことは正しかった。
しばらくして天王星の外側に新しい惑星、海王星が見つかるんだ。
つまり、ニュートン力学を捨てなくて正解だったわけだ。
こういう後付けの辻褄合わせで理論の整合性を整えることは実は割と日常的にも行われている。
(ちなみに、「後付けの変更」で観察と仮説の辻褄合わせをすることをよく、アドホックな変更とか言ったりする)
意外に思われるかもしれないけど、よく考えてみれば別にそうでもないんだ。
だって反例が見つかるたびに理論を捨てていたら、毎日小学校の理科室で実験が行われるたびに科学理論は更新されていくことになってしまう。これじゃ不便だ。
科学実験を行う者の技術的熟練度とか、実験器具の精密さとか、そういう色々な、通常は暗黙の補助仮説である条件に実験・観察は支えられている。
でもって、例えば科学的理論を作るための実験器具の仕組みとかってのがまた科学理論に依存してたりもするよね。
実験・観察を一つ行うにしても、様々な暗黙の条件とか枠組みにそれが依存しているってことなんだけど、これを「観察の理論負荷性」とか言ったりする。
これってさ、少し極端なことを言えばさ、「ある仮説に対しての実験から得られた観察」っていうのはさ、どんな観察結果が出ようが、それ以外のところ、暗黙の条件の部分を後付けで弄れば仮説を救い続けられることにならないか?
天王星が理論値どうりに動かないのは、
近くに別の未知の惑星がある、とか
いやぁ、僕の望遠鏡、あんま精度良くないんすよねぇ、とか
あれ、なんか今日は疲れてたから記録間違えたかも、とか
ちなみにそれをさらに過激にした「あらゆる仮説はどんな観察からでも支持される」っていう、「デュエム=クワインテーゼ」なんてものある。興味があればググってみるといい。
ちなみに2つの仮説の間で白黒つけるための実験(地動説と天動説どちらが正しいかいざ尋常に勝負みたいな)のことを、決定実験って呼ぶんだけど、今までのことを踏まえて「2つの仮説が対立しているとき、観察により一方のみを排除することはできない」って主張を「決定実験の不可能性」なんて呼ぶ。
もう少し強めた「観察によっては仮説は決定されない」って主張は「過小決定」と呼ばれている。
でもさ、そんなこと言うと科学理論って滅茶苦茶にならね?そんなんなんでもありじゃん?
って言いたくなるよね。
もちろん、なんでもありって訳じゃない。(何でもありって言う人もいたけどね、ファイヤアーベントとか)
多分さ、科学者たち(研究者共同体とかって言ったりもする)っていうのは、どこまで後付けで救っていいか、その線引きみたいなのを明文化できなくともなんとなく分かってやっている。
科学研究の前提となる、当たり前に共有している、なかなかキッチリは定義しづらいルールみたいなのに則ってる。
そのルール、枠組みみたいなのをクーンは「パラダイム」と呼んだ。
だからクーンのパラダイム論なんて言われたりする。
さて、このパラダイムって概念なんだけど、なかなか捉えるのが難しい
故に説明も難しいわけで、ここからは少し難航するかも知れない。
パラダイムを理解する為に、まずはそうね、
科学ってものを限界づけられたもの、とか、局所性があるものと考えて欲しい。
あるいは、言語と比較すると分かり易くなるかも知れないかな。
科学を一つの言語体系、言語ゲームと見做すんだ。
そうゲーム、大富豪でも麻雀でもなんでもいい。
そういうルールに従う一連のコミュニケーションみたいなものと考えて欲しい。
科学者はパラダイムというルールに従って科学というゲームをプレイしている。
日本語話者は、日本語の文法に従って日本語を話すし、英語話者もそう。
科学者は科学の文法に従って科学語を話す。みたいな。
日本語とか英語でもそうだけどさ、明確なこうでなきゃダメみたいなルールって明文化されてないじゃん?まぁ文法書とかは腐るほど出てるけど、言葉って変わるし。絶対コレってのはない。
けど、文法からあまりに逸脱してると何言ってるか分からない。「あのほらけ」とか言ってみても伝わらないでしょ?
パラダイムもなんかそんな感じのヤツ。
それの科学版。
そんなイメージをして欲しい。
でさ、このパラダイムってのは変化する。ずっと同一のままじゃない。
日本語でも、平安時代と、大正時代と現代でずいぶん様相が異なるように。
科学のパラダイムもずっと一定って訳じゃない。
今の科学と、例えばそうねデカルトあたりの時代の科学って違う。
時間的流れの内で科学を見ると、
前科学→(あるパラダイムの設定)→通常科学→(アノマリの発見、蓄積)→異常科学→(別のあるパラダイムの設定)→通常科学→ 以下ループ
みたいに変化していく。
前科学ってのはなんかどうしていいか分からなくて右往左往試行錯誤してる状態だと思ってくれていい。まだ科学としての前提ルールが確立されてないんだ。
で、試行錯誤の末、なんか安定した方法に落ち着く、そこがパラダイムが設定された地点となる。
で、そのパラダイムに則って安心して科学研究を進められる平和な時代が通常科学。
そして、アノマリと呼ばれる、これまでの科学で説明できないような事例が発見され始める時代を経て、混乱した人々によって様々なパラダイムが乱立される戦国時代みたいなのがやってくる。これが異常科学の時代。
で、今度はその異常科学が乱立する乱世を治め天下平定を為すパラダイムがまた新たに出てきて、通常科学がまた始まる。
こうやって、今までのパラダイムが別のパラダイムへと取って代わられることを「パラダイムシフト」が起こるとか、「科学革命」とか呼んだりする。
気を付けて欲しいのが、このパラダイムシフトってのは蓄積的進歩から起こる訳じゃないってこと。
蓄積する為の土台から変わる。
これまで日本語だったのがフランス語に変わるみたいな。
ルール自体が変わってしまう。
さて、ここで「科学は客観的なもの」という前提に疑問を差し挟む余地が出てきてしまう。
つまり、
パラダイムに従って研究するのはいいし、パラダイムから導かれるルールは客観的かも知れないけど、じゃあパラダイムを選ぶ段階においては主観入ってね?ってことだ。
そうね、分かりづらいところだよね。
例を出して考えてみようか。
長さを測る場面を考えてみよう、より正確に長さを測りたい。
そこでmという単位を使って規格を統一することにした。
で、メートル原器を基に定規を作って目盛りを打って、
はい、これで正確に長さが測れます!
けど、それで測量できないものが1つあるよね。
何だと思う?
それは、メートル原器だ。
メートルを測るためのルールであるメートル原器はメートルで測れない。
科学の客観性を測るためのルールであるパラダイムは科学では測れない。
メートルを使うかフィートを使うかインチを使うか、あるいは歩幅で測ってみるかは、なにか決められたルールに基づいて選ぶんじゃない。どれが使いやすいかとか、目的があるか、あるいは完全ランダムに好きなのを選んだのかも知れない。
「君は自由だ、選びたまえ」ってね。
さて、ここで「通約不可能性」の話をする前にその後から、説明がルート分岐することを押さえておいてもらいたい。
前期クーンの主張をさらに推し進めたファイヤアーベントと、自らその主張を弱めた後期クーンとに、説明は分岐する。
ところでさ、俺はパラダイムを言語と比較したけど、少し言語の方に考えを移してもらいたい。一旦ね。
私の思考の限界って何によって引かれるんだろう?
それは多分、私の言語だ。
じゃあ言語の限界ってさ、私の思考の限界ってなんだろう。
それは私の世界の限界と同じにならないか?
私の言語の限界を越えるものを私は思考しえない、はずだ。
これは個人的な解釈だけどさ、パラダイムっていうのは科学の限界と言えそうな気がするんだ。
だから、あるパラダイムに立てば、他のパラダイムのことは思考しえない。
思考の限界を越えるものを思考しえないように、言語の限界を越えるものを語り得ないように、世界の限界の外に立てないように。
私の論理空間はあっても、あなたの論理空間は分からない。
私の世界の限界は分かっても、あなたの世界の限界は分からない。
私の世界は分かっても、あなたの世界は分からない。
あるパラダイムに立つなら他のパラダイムは分からない。
パラダイム同士に共通の尺度、あるいは到達関係は計りえない。
こういった考えを「通約不可能性」という。
さて、予告しておいたように、ここから説明は分岐する。
ファイヤアーベントと後期クーンとに。
さて、あるパラダイムの外に立ってそのパラダイムを計ることはできない。
そして、パラダイムを選ぶ段階では主観が入ってるってことだったけど、この考えをさらに推し進めたのがファイヤアーベントだ。
理論選択の場面、つまりどのパラダイムに従うかを決める段階において、それは客観性・合理性を保証するパラダイムに従いえない。
だってまだパラダイムを決めてないんだから。
でもって、さらに、パラダイム同士の比較もできないんだったね。通約不可能性から考えると。
じゃあさ、どうやってパラダイムを選ぶかって、もう完全に主観じゃね?
どれが良さげが、どれが好きか。
それって客観的で合理的とは言えそうにない。
なるほど、「どれを選ぶと便利そう」とかはあるかもしれない。けど、その便利そうってのも主観じゃね?
何かしたいことがあって、それに対して都合が良さそうってことでしょ?
てなると、理論選択の場面において客観的合理的な基準なんてなくて、その選択は主観とか先入観、願望、入りまくりじゃね?
なんなら宗教と変わらなくね?
どれを選ぶか、その解釈はこちらに全面的に任されてる
理論の本質みたいなものもさ、先に理論があって後付けで見出してるみたいなもんじゃね?
「実存は本質に先立つ」とか「君は自由だ、選びたまえ」とか。
なんかそんな感じ。
実存主義者サルトルの言葉だよね。
じゃあ、科学って客観的なものじゃないのかよ!?なんでもありかよ!?
そう言いたくなるよね。
それに対して、「何でも構わないんだよ(anything goes)」と言ったのがファイヤアーベントだ。
この立場は全面的実存主義なんて言われたりもするね。
サルトルが価値に対してのみ実存主義だったのに対して、ファイヤアーベントは事実に対してもその姿勢を取るから、全面的って言われる。
前期クーンの考えを推し進めた結果、科学には守るべき規則など存在しないという結論に達したわけだ。
ただ唯一の例外となるある規則を残して。
その規則はさっきも言った「何でもかまわない」だ。
それどころかファイヤアーベントは国が特定の1つの科学を贔屓することを批判する。
なんでも構わないんだから好きにさせろ、関わってくるんじゃねぇ!って
信仰の自由を主張するように彼はそう言う。
そして彼は国家と宗教は分離すべきという考え、つまり政教分離と同様に、国家と科学も分離すべきだと主張する。
彼の主張は、無政府主義になぞらえて、アナーキズムなんて言われる。
まぁ科学理論に関しても、商業同様プロパガンダ戦略が大きな役割を果たしてるって主張でもあるね。
売れるかどうかが全て。
合理性?客観性?そんなもんは知らねぇな!って
けど、多くの人が思ったと思う。
そりゃいくらなんでも言い過ぎでしょ?って
そして、それはファイヤアーベントの主張の元になったクーンでさえもそう思った。
あぁ、その前にちょい補足。
全面的実存主義ってのは相対主義ともいわれる。
全ては相対的。
でもそうだとしたら「全ては相対的」って主張も相対的なものにならないか?
ファイヤアーベントは答えるだろう。「その通り、この主張も相対的だ」と。
気持ち悪いけど、矛盾はないよね。
じゃあまぁ後期クーンを見て行こう。
(日本語の文法を知らない人に日本語の文法を日本語で説明しても分かってもらえない、という喩えを今思いついた)
前期と後期でクーンの主張の性格は結構違う。
前期クーンを元にそのまま推し進めたファイヤアーベントとは別の方向に向かい、自らの主張を弱める。
けど、前期と後期で共通する主張ももちろんある。
それは以下の3点で、
1.「パラダイムシフトはあります」漸進的・蓄積的な科学の進歩観は否定される。
2.パラダイムの選択は論理的アルゴリズム(あらかじめ決められた決定手続きみたいなもの)に従ってなされるわけではない。
(*あえて、「客観性」とか言わずに論理的アルゴリズムと言ったのには理由がある)
3.パラダイムは科学者共同体の意向によって決まる。
科学において、一種有機的とも言える共同体の役割というものを重視する考えである。
この3点から、非合理主義を主張するかどうかでルート分岐がある。
後期クーンは、前期とは違い、非合理主義を主張しない方へと進んだ。
後期クーンは前期において「通約不可能性」を唱えたにも関わらず、パラダイム同士を一定の基準に照らし合わせて比較し、優劣をつけられると掌を返した。
それは以下の5点である。
精確性
無矛盾性
広範囲性
単純性
多産性
これらをパラダイムを越えて通用する理論選択の基準として挙げ、決定が非合理なものでないことを主張する。
さっき質問があったからちょっと補足説明すると、
まぁここで「お前さっき、思考の限界は越えられないとか世界の限界がどうとか中二病みたいなこと言ってパラダイムの外は思考しえないとか言ってたじゃんか」とツッコミが入るところだとは思う。
けどね、こうも言ったよね。科学は局所性があると。
不完全性定理がラッセルのプリンキピアマティマティカにおける数学の不完全性を証明したからと言ってだね、人類の叡智が否定されたとか真なることは知りえないとかそんな大げさなことにはならない。
それは数学の証明に局所性があるからだ。
局所性がある以上、その外がある。
そうなれば「証明」という語の使われ方が問題になる。
数学的な証明をしなくても日常的な証明で十分な場面だってままある。
じゃあ、合理的な証明、客観的な証明、筋の通った証明というのが、どうしてそう判断されるのか、という問題でもある。
同じことが、パラダイム論に対しても言える。
つまりギッチギチの決定手続きに則った論理的アルゴリズムにおいて示される合理性だけではなく、もっと広義な、柔らかな合理性というのが求められるようになるわけだ。
まあそもそも、くどいようだけど、「論理的アルゴリズムに従うものだけが合理的と呼ばれるべきだ」って主張はさ、決して論理的アルゴリズムに則ってないよね。
で、さっきの「論理的アルゴリズムに従うものだけが合理的と呼ばれるべきだ」って立場を便宜上、アルゴリズム主義と呼ぶとする。
すると、科学主義という立場はこう分析できそうだ。
「科学は論理的アルゴリズムに則っている」かつ「論理的アルゴリズムに従うものだけが合理的だ(アルゴリズム主義)」
いわば科学主義は、論理的アルゴリズムの外を切り捨ててしまうわけだ。
ちょっと極端だよね。
で、「科学は論理的アルゴリズムに基づいている」っていうのはさ、クーンの科学観では否定されてたじゃん。って言いたくなると思う。
つまり、この否定を取って「科学は論理的アルゴリズムに基づいていない」となる。
今度はこいつとアルゴリズム主義をさっきみたいに「かつ」で結び付けてみよう。
「科学は論理的アルゴリズムに基づいていない」かつ「論理的アルゴリズムに従うものだけが合理的だ」
すると「科学は合理的ではない」という前期クーンやファイヤアーベントの立場と同様の主張が導かれる。
それもそれで極端だよね。
だから、いい感じの落としどころを見つけたい、というわけだ。
そこで、じゃあ「合理的である」っていうことの条件をちょっと考え直してみようか、となる。
こんな極端な結論ばかり出てくるのは「合理性」さんサイドに問題があるんだよ!と。
ここで、論理的アルゴリズムが示す領域と合理的・客観的であることが示す領域がぴったり重なっているアルゴリズム主義を捨てることになる。
いわば、合理性・客観性概念の拡張だ。
レジュメでは反アルゴリズム主義と書かれているけど、個人的には非アルゴリズム主義の方がしっくり来る気がするよ。
これは、「科学が論理的アルゴリズムに従うわけでない」ということはどうも疑いようがないみたいだけど、どうにか合理性は確保したいと考えたときに可能な立場として思いつくもので、まぁ折衷案みたいなものだよ。
まぁ前期クーンは科学は論理的アルゴリズムに従わないということを示しちゃったけど、後期では、「いや、待て、そりゃアカン、合理的と言えなくなる」と焦って「じゃあ科学の方じゃなくて合理性の方を変えたろ」と科学を批判したというよりは合理性概念を批判して新たな合理性概念へと向かったという感じ。

さて、では新しい合理概念とはどういうものなのか?
その前にいったん、従来の合理概念の方を確認しておこう。
まず「合理的」「理性的」であるということは「方法的」であることと同義である。今まで、俺がとくに説明もせずに使ってきた「決定手続き」に基づくってことね。あらかじめ決められた手続き・方法・基準に従っていること、すなわちアルゴリズムに従うこと。
そして「客観的」であることを実在と対応していること、「真理(正しいということ)」は実在との対応によって規定されるよ。
そうね、「正しいということは成立していることである」とか言っても良いと思う。
例えばね「ポチは犬である」という命題があるとして、それが客観的であるということは「ポチが犬である」という実在の事実と対応していること、そして命題の正しさは実際に「ポチが犬である」ということの成立に対応している。
従来の合理概念はいわば、実在論的であると言えるかもしれない。
それってさ、「世界の在り方は私たちの認識とは独立だ」ってテーゼがさ導出されてしまいそうじゃない?
するとさ、「科学」ってのは私たちの認識とは独立に存在する真理を探究するすげぇ試みで、「科学者」ってのは人間と実在の仲介をするすげぇヤツ、ってことにならないか?
んでもってさ、私たちの認識に依存するようなものは、従って非合理的で取るに足らないものってことにもならないかな?
例えば、人文学
例えば、倫理学
例えば、芸術
例えば、哲学
しかも、残念だけどその科学ってのも合理的じゃないってことになるんだったよね。
じゃあそれらが合理的であることが可能な道ってどんなのよ?
方法論だけ科学を真似てみる?(そんなことをしてるなんかよく分からない分野もあるよね)
けど、それってなんか変だ。
そもそも立ってる位置が違うのに、方法だけ真似ても上手く行かなさそう。
じゃあ、もう一つの道は……
あ、そうだ開き直ることも出来るよね。
「そもそも俺たちは客観性とか合理性とかそういうやりかたで自分の価値を主張してるわけじゃねぇ!」って「客観的真理なんて始めから求めてねぇ!」って。
けどそれもなんか虚しくないか?と。
じゃあ残る道は、「合理性」「客観的」「真理」それらの語の用法、示す領域を拡張する。
科学や哲学、価値とか事実とかをそのうちに含むことが出来るように。
二項対立関係を、その線引きをグラデーションのようにぼかしてやればいいんだ。
主観/客観 合理/非合理 事実/価値
それら全ての対を終えさせる。
まぁでもそれはつまり、曖昧なままに残すことにもなるし(少なくとも現時点ではっきりした新しい線引きみたいなのはついてないみたいだ)、気持ち悪さも残るよね。
「客観性」「真理」というのは「強制によらない合意」と捉えられるらしい。
けどじゃあ、みんなが正しいっていうならそれはじゃあ本当に正しいって言えるのか?って疑問も出ると思う。
みんながみんなして間違えてるかもしれないじゃん、と。
実在論的には、つまり従来の真理概念(真理対応説と言うよ)では当然そういう疑問は出る。
けど、それは従来の真理対応説にまだ乗っかっているからそう思うんだ。
新しい合理概念、真理概念では「真理は構成されるものである」もっと言えば「存在するとは構成されることである」とか言える。
未だ構成されていない「真理」は存在してない故にもはや真理などではなく、実在論的真理対応説に基づく疑問はナンセンスとなる。いわば、そもそも問いが成立してない。
みんなが正しいっていうなら本当に正しいの?
みんなが間違ってるかも知れないじゃん?
確かにそうだけど、とりあえず、今は正しい。
みんなが間違ってるかもしれないけど、とりあえず今はまだ間違っているという事実は構成されていない。
つまりだ、「真理」というのは実在する対象ではなく、私たちの合意、知識状態に依存するって考え方だね。
構成主義的有限の立場とも言う。
例えば、「あなたは明日の昼、パスタを食べるか食べないかどちらかだ」という命題があったとして、(こういう、「AかAでないかどちらかだ」といいう主張を排中律とか言ったりするよ)、この命題は古典論理的には必ず正しい。
パスタを食べるか食べないかどっちかだ。
けど、じゃあさ、明日の昼になって「さぁなんか食べるか」っていう段階の以前に車に惹かれて死んじゃったりしたらどうするのよと?
いやまぁ、確かにパスタは食べれないだろうから、「パスタを食べるか食べないかどっちかだ」というのは成立するだろうけど、なんかそれ以前の問題じゃね?と。
まぁつまり、「世界の在り方は私たちの認識とは独立だ」っていう実在論の立場でなく「いや、それも私たちの認識から独立はできないでしょ」と考えるのね。
(もっとも、論理の立場としては、オイ排中律使えないと不便だぞとか、合理概念を拡張した余波がこっちまで来て論理も変えないといけないぞとか、観念論は実在論の部分系であるので、合理概念が広がったのはいいけど論理は狭まったぞ、とか色々言いたいことはあるけども)
じゃあ科学が優れてる点って結局なんだったのよ?って
まぁ、そりゃ、その態度だろうなぁ。
見てきたように、これこれであるから科学は素晴らしいとか合理的だとか、きっちり論理的に主張できそうにない。
だってそれは私たちの認識に、依存するんだから。
じゃあ、意見の一致、みんなが納得すればそれでいいのか?全体主義的じゃね?とか思うかも。
そこもなんというか柔らかに躱すことになるんだよね。
だって合理性が柔らかくなったんだから。それも許されるはず。
なんかこう「強制によらない合意」と「容認できる見解の相違」が良い感じに混ざり合う地点を目指すことになるんだよ。
科学って、最初は多分、豊かでより良い人間の生活みたいなのを目標にしてたと思うのよ。
「人よ、幸福に!」って。
だから必ずしも「合意」「収束」が絶対に望ましいわけではない。
この活動の目的は休息ではない。
一応これで説明は終わりかな。
最後に、一節引用して〆ようか。
「私の書いたものによって、他の人が考えなくて済むようになることは望まない。できることなら、読んだ人が刺激され、自分の頭で考えるようになって欲しい」(L.Wittgenstein)
あ、そうだ、文献紹介をしとこう。
科学哲学について知りたい人はだね、まず始めの一冊目としては名古屋大学出版会から出てる『疑似科学と科学の哲学』、著:伊勢田哲治がオススメ。
もしくは「素晴らしき日々」

不完全性定理についてまとめ

ゲーデルの「不完全性定理」の持つ意義について述べる為に、まずは「ラッセルのパラドクス」についての説明から始めることにしたい。 

 「ラッセルのパラドクス」とは、「数学を論理学で基礎づける」という論理主義と呼ばれる構想の為にフレーゲが自身で開発した述語論理をこれまでの論理学で扱っていた一階の述語論理から二階の述語論理へと拡張しようとした際に生じた、ラッセルがフレーゲに指摘したパラドクスである。 
 二階の述語論理とは、フレーゲが数という対象を述語論理へと取り入れるために考えたもので、例えば或る命題関数Fxに対してそのFxについて言及するような命題関数を扱うことを言う。 
つまり従来の一階の述語論理が命題関数の自由変項xの定義域として個体のみを扱ったのに対して、自由変項xの定義域として個体だけでなく命題関数を扱うことも認めたものが二階の述語論理なのである。 
そして変項に関数を入れることを無制限に認めた結果、ラッセルのパラドクスが生じることになった。 
 先程述べた考えでは、命題関数Fxの変項xとしてFx自身を扱うF(Fx)という自己言及の形の命題関数も認めることになる。 
そしてF(Fx)が偽であるような場合、すなわち「述語Fが自分自身に述語づけられないような述語である」場合を考えると矛盾が生じてしまうのである。 
 まず、「述語Fが自分自身に述語づけられないような述語である場合」をまとめて扱うために命題関数で表現して、 

ω(x) 「xは自分自身に述語づけられない述語である」 とする。 
ω(x)の定義より、 
ω(x)≡¬x(x) であり、 
このxにω自身を代入すると、 
ω(ω)≡¬ω(ω) となって、 
証明は省くがこれから、ω(ω)∧¬ω(ω)という矛盾式が導かれてしまうのである。これがラッセルのパラドクスである。 
 また、論理学における命題関数と数学における集合は同等のものであるので、集合についても同様のパラドクスが導かれてしまう。 
 このラッセルのパラドクスは論理主義だけの問題に留まらず、論理学・数学一般にまで大きな影響力を持った。 
そして、そのラッセルのパラドクスに対する反応の主だったものは三つの立場から為された。すなわち、論理主義、直観主義、形式主義である。 

 初めに、論理主義ではラッセルのパラドクスを発見した本人であるラッセル自身がパラドクスを回避する為の方法として「タイプ理論」を提案した。 
タイプ理論とは「個体を扱う表現をタイプ0、タイプ0の表現に対する述語をタイプ1、タイプ1の述語に対する述語をタイプ2…」というように表現についてタイプを定め、その上で「或る述語が述語づける相手は必ずその述語よりもタイプの低いものとする」という規則を設けて自己言及を禁止することでパラドクスを避けるという理論である。 
ただし、全ての自己言及表現がパラドクスを引き起こすわけではないので、タイプ理論は処置としては少し強すぎる等の問題もあり、現代では、タイプという考えは生きているが、主流ではなくなっている。 

 次に、直観主義では数学者ブラウアーによって、ラッセルのパラドクスは無限という対象を実在論的に扱った結果生じたものであるという考えが提案された。 
直観主義とは、無限という”完成された”対象が存在するわけではなく、或る操作を際限なく繰り返すことで無限は”構成される”とする立場である。 
 この構成主義的見方に従うとラッセルのパラドクスは、無限集合M={x|x∉x}を完成された集合として扱っているのであり、そこに問題があるということになる。 
構成された集合Mに新たに要素としてM自身を加えたならば、その時点でMは構成し直され新たに集合M’となり、M∈MではなくM∈M’となる。 
 命題関数で同様に考えようとするならば、まず変項となる対象xを集めて関数Fxが構成され、次に今構成されたFx自身が新たに変項となる対象xとして加えられたので定義域の変化に伴い関数FxはF’xとなるため、ラッセルのパラドクスで自己言及とされた表現F(Fx)はF’(Fx)となり自己言及ではなくなるのである。 
 また直観主義では証明もまた構成主義的手法に限定されることになる。 
そこでは無限へとアプローチする為の手法として数学的帰納法が認められるが、しかし一方で排中律が無条件で成立するわけではなくなるという制限も受けてしまうことになるのである。 

 この直観主義の考え方に反対したのがヒルベルトである。 
ヒルベルトの考えでは制限されるべきなのは証明の手法ではなく、重要なのはそこに矛盾が生じないことをきちんとチェックすることであり、むしろこのチェックの段階において構成主義的手法が用いられるべきだとされる。 
こうして提案された、形式的体系としての数学とメタ数学的チェックという二本立てのアイデアがヒルベルトの唱えた形式主義の立場である。 
 形式的体系としての数学という考えでは、公理的方法により数学を形式的体系として整理する。公理系とは単なる記号変形のシステムであり”意味抜き”された形式的体系であるから「無限」などといった観念の”意味”を考える必要はなくなり、直観主義のように排中律を拒否する必要もなくなるため従来通りの述語論理が採用できる。 
また無限集合においては、パラドクスを回避できるように公理系を整備する。 
ラッセルのパラドクスに対しては、無限集合を集合の対象として無制限に認めたことにより引き起こされたものなので、問題が起きないような性質の良い無限集合だけに対象を制限した公理を設けることで回避できるのである。 
 またメタ数学とは公理系に対して「有限の立場」と呼ばれる構成主義的手法でその無矛盾性を証明するというものである。 
ここでもやはり、証明とは”有限回”の手続きに従った一連の式変形に他ならないものとして捉えられるので、排中律を拒む理由はなく、メタ数学においても排中律は許容されるのである。 
 しかし、この形式主義の立場にも問題があるということがゲーデルによって示されてしまう。 
具体的には「有限の立場」に限定されたメタ数学という考えが、公理的方法とそれに対するメタ的チェックという考えが現代まで生き残っているという一方で、挫折することになるのである。

ヒルベルトの計画に拠ると、 
① 数学について“意味抜き”された形式的な公理系を整理し、 
② メタ数学の立場からその無矛盾性を、つまりどの命題もその体系内でそれ自身の肯定と否定が同時に証明されないことを示す。 
これにより、体系が健全であることが保証されるからである。 
③ メタ数学の立場から公理系の完全性、すなわちどの命題であってもその肯定か否定が体系内で証明されることを示す。 
これにより、数学の命題が必ず解決することが保証されるからである。 
 という以上のことが上手くいけば、数学が完全であることが確立されるということであった。 
 そしてこれらの証明は「有限の立場」のメタ数学で行われる。 
つまり、無矛盾性を証明したい体系と同等の体系を用いて証明を行うことになる。 
なぜなら、証明したい体系よりもより強力な体系で証明を行えばより不確実なもので確実なものについて証明することになってしまうからである。 
 この計画はゲーデルの「不完全性定理」により実効深野であることが示される。この「不完全性定理」の中核は以下の二つの主張から成る。 

 第一不完全性定理:自然数論の公理系Nがω無矛盾ならば、ある自然数nが存在し、Pr(n)も¬Pr(n)も公理系Nでは証明不可能となる。 
 第二不完全性定理:自然数論の公理系Nが無矛盾ならば、その無矛盾性は公理系Nでは証明できない。 

 第一不完全性定理により、「自然数論の公理系が不完全である」ということが主張され、第二不完全性定理により「有限の立場でのメタ数学では自然数論の無矛盾性は証明できない」ということが主張される。 
 数学の最も基礎的な部分である自然数論においてこの結果である以上、数学全体において完全性を主張出来る道理はなく、ヒルベルトの計画は実行不可能ということになるのである。 

 不完全性定理はまず、「私は証明不可能だ」というメタ数学の命題を表現する自然数論の式¬Pr(g(A))≡Aを構成することを一つの目標とする。 
ここでg(A)は式Aのゲーデル数であり、Pr(n)は「ゲーデル数Aの式は自然数論の公理系Nで証明可能である」というメタ数学的命題を表現する自然数論の式である。 
 そして証明及び詳しい説明は省略させてもらうが、公理系Nの任意の一変数の式について対角線論法を用いることで次の補助定理が導かれる。 
任意の式F(x)に対して、次のような式Aが存在する。 
F(g(A))≡A 
ここでF(x)は任意の式であるので、F(x)として¬Pr(x)をとることで先程の式、 
¬Pr(g(A))≡A となるような式Aが存在する。 
という定理(#)を得る。 
また、公理系Nに式Aが存在するならAは証明可能なはずであり、「Aは証明可能である」というメタ数学の命題が成立するので、それを表現する自然数論の式Pr(g(A))をAから導出して良いことになる。 
 さらに、その逆にPr(g(A))からAを導出しても良いが、こちらは公理系Nがω無矛盾であることが必要となる。 
これは式Aが公理系Nの定理ならば式Aは証明可能であり、式Aが証明可能ならば式Aは公理系Nの定理であるということを表している。 

 そしてこれらを踏まえて考えると、 
(#)より、¬Pr(g(A))≡A を満たす式Aが存在し、g(A)=nとして、 
¬Pr(n)≡Aである。 
 ここで、¬Pr(n)が証明可能であると仮定し、¬Pr(n)≡AよりAも証明可能。 
Aが証明可能なのでPr(g(A))が導出され、g(A)=nよりPr(n)。 
 従って、¬Pr(n)が証明可能であると仮定するとPr(n)も証明可能になり矛盾式を導くので、公理系Nが無矛盾ならば¬Pr(n)は公理系Nにおいて証明不可能であり、またω無矛盾は無矛盾よりも強い条件であるので、公理系Nがω無矛盾ならば¬Pr(n)は公理系Nで証明不可能である。 
 そして、Pr(n)が証明可能であると仮定すると、g(A)=nよりPr(g(A))も証明可能。 
 公理系Nがω無矛盾ならばPr(g(A))からAを導出して良いのでAを導出し、¬Pr(n)≡Aより、¬Pr(n)も導出される。 
 従って、Pr(n)が証明可能であると仮定すると、¬Pr(n)も証明可能となり矛盾式を導くので、公理系Nがω無矛盾ならばPr(n)は公理系Nにおいて証明不可能。 
 以上より、第一不完全性定理を得る。 

 また公理系Nが無矛盾であるならば定理として証明できないような式が存在するはずである。 
なので、「公理系Nは無矛盾である」というメタ数学の命題は「証明不可能なあるゲーデル数xの式が存在する」ということと同値であり、公理系Nの式として表現すると、∃x¬Pr(x)である。 
  
 先程の第一不完全性定理より、 
 公理系Nが無矛盾ならば¬Pr(n)は公理系Nで証明不可能であり、 
¬Pr(n)≡Aより、Aも証明不可能。 
 また、g(A)=nより公理系Nが無矛盾ならばゲーデル数nの式は証明不可能である。 
 「公理系Nが無矛盾である」は公理系Nの式では∃x¬Pr(x)なので、 
以上は、∃x¬Pr(x)⊃¬Pr(n) と書ける。 
 これより、公理系Nにおいて∃x¬Pr(x)が証明可能ならば公理系Nにおいて¬Pr(n)も証明可能。 
 この対偶をとって、公理系Nにおいて¬Pr(n)が証明不可能ならば公理系Nにおいて∃x¬Pr(x)も証明不可能。 
 そして、公理系Nが無矛盾ならば¬Pr(n)はNでは証明不可能なので、従って、公理系Nが無矛盾ならば∃x¬Pr(x)はNでは証明不可能となり、以上より第二不完全性定理を得る。 

 このようにして、有限の立場に限定されるメタ数学では自然数論の公理系Nの完全性を証明できないということが示され、ヒルベルトの数学を基礎づける為の計画は上手く行かないことが宣告されたのである。 
 とは言え、このことに「人間の知性の限界が示された」などと過大な解釈を与えるのは全く余計なことである。 
不完全性定理は、公理系の“中で”証明できないことがあるという事実を示したのであり、その証明できないことも非形式的な、つまり真であるということが判明したなら証明されたとするような一般的な意味で証明することは不可能ではないからである。 
公理系からはみ出るからと言って人間の知性からはみ出すというわけではないのである。 
 数学内の命題は論理命題と同様、特定の事実や思考内容を表現するものではない。 
なので、数学的何事か、勿論公理系の無矛盾性も含むを証明するという時にどのような数学的規則・道具立てが許容されるかということは結局、人間の実際的知性により判断されるのである。 
 数学の公理系の完全性がその中で証明できないことが示されたことにより「人間の知性の限界が示された」のではなくむしろ、「数学的真理の限界が人間の知性に因っている」ということが再確認されたのではないかと思う。 



参考文献:『論理学』 著 野矢茂樹  東京大学出版

人生の意味についての考察。芸術作品との類似について。

 なんとなく昔からの考えを今になって言葉にしてみたくなったので。
 読み物として。





 人生とは1つの作品である。1冊の本、1曲の音楽、1枚の絵画などのものに似ているよう感じられる。世界と生とは1つであり、また倫理と美とは1つである。

そして、また生が1つの作品であると捉えられた下では、生と美とは1つとなる

では、作品(生)の価値や意味とはどういうことなのだろうか。

例えば音楽の場合について考えてみよう。

旋律の芸術的・文化的価値、演奏の技術の素晴らしさ、観客に対し訴えかけるものと彼らの心を動かすこと。

あるいは、ある素晴らしい作品がこれまでの音楽史に影響を与え、後世において「そういうわけであの曲は価値があった」とか「音楽史を大きく変えたのがあの曲の意味だ」などと言われることもあるだろう。

また本や絵画などについても同様のことが考えられると思う。

ところで、このような価値や意味の言われ方もあるだろう。例えば「ここの旋律はこれこれを意味している、そして上手く表現されている」「ここでの転調は曲を盛り上げる意味がある」「ここの和音はこれこれな雰囲気の響きを持つのでしかじかの演出の意味がある」

ここで言われているのは、いわばミクロな次元(作中の内側)での話である。そして前に出した例はマクロな話である。

自分で誤解しないように書いておくが、ミクロコスモスとマクロコスモスは今は関係ない。

生(それ故、世界)にはそれを1つの総体として見るマクロ的な見方と、生(あるいは世界)の内での出来事に着目するミクロ的な見方とがある。

 音楽、そして本や絵画は、単なる旋律の寄せ集め、単なる文の寄せ集め、単なる記号の寄せ集めではない。数多の旋律やリズム、演出や作曲者の込めたメッセージや演奏者の技術や表現、それらが不可分に接合し調和することで1つの音楽となるのだ。そしてまた素晴らしい音楽はそれを聞く人の心を大きく揺さぶる。こうして音楽はそれを聞く人とそれ自身をも接合する。

 ミクロな見方において、音楽(その一部分)の意味や価値は語ることが出来る。マクロな見方においても同様、音楽の意味や価値は語れるものとしてある。

ではそれが1つの音楽の全てだろうか?いや、そうではない。

音楽の諸要素を接合・調和させるものとは、そして音楽の外のたとえば聞き手と接合させるものは何であるのか?

 音楽のうちに現れるものだけがその1つの音楽の全てではない。

1つのまとまりとして見られた音楽。

たとえば、そのタイトルは音楽のうちには含まれない。音楽を聴く者ももちろん音楽のうちには含まれない。そしてその全体としてのテーマも。

音楽は1つの世界である。

 

  「音楽のテーマは或る意味で命題である。従って論理の本質を知ることは、音楽の本質を知ることに通じるであろう。」

               Ludwig Wittgenstein『草稿』1915.2/7

 

 

  「3.141 命題は語の寄せ集めではない。――(音楽の主題が音の寄せ集めではないように。)」

Ludwig Wittgenstein『論理哲学論考』

 

 

 ところで、世界とは事実の総体であるが、それはまったく正しいと私は思っているが、そのような世界に対する理解は私たちを「摩擦のない世界」あるいはパスカルの言う「永遠の沈黙」へと導いてしまうよう思われる。そして、世界が事実の寄せ集めであるかのような認識に。

もっとも『論考の』6.373~6.3756.41などを参考にすれば、世界のうちでは全てが偶然であり、あらゆる出来事は意志から独立である。

しかし、意志は事実の寄せ集めである世界に調和をもたらしうる。

そのような意志こそ“生きる意志”であり、単なる事実の寄せ集めではなく調和した総体としての世界こそ“生きる意志で満たされた世界”、“幸福な世界”である。

 素晴らしい音楽とは、音楽のテーマが音の寄せ集めではないのと同様、テーマの寄せ集めではない。素晴らしい音楽とはそのテーマが美しく整列し調和のとれた音楽のことである。

テーマとテーマの繋がり、テーマ同士が相互に作用し、その連関のうちに一方が他方に意味を与え、さらのその意味を与えられたテーマが意味を与えたテーマを引き立て、そしてさらに別のテーマと関係し……(ここで言われる意味とは音楽のうちにあり、故に分析的に語りうるものであるが)というふうに1つ1つがすべて限りなく細かい網の目へと、巨大な鏡へと編み上げられていく。

そしてその構造が、一歩引いたところから全体として見られたときハルモニアを伴って映るのである。

網の目の全てを顕微鏡を使って調べ上げたところでハルモニアが観察されることはないだろう。

あるいは、こうも言えるかも知れない。ある素晴らしい音楽を調べてそのテーマや構成要素(演奏の技術なども含む)の意味を考えることはできる。しかし、それらを集めて音楽を作ったところで素晴らしいものとなる保証はない。美しさは分析に先立つ。そして、美しさそのものは分析によって明らかに出来ない。それでもあえて言葉にしようとするなら、それは、その音楽に関わるものの意志であろうか。

 

 作品とは作り出されるものである。それは作り手の投企(意志ではない)によって刻々と作り出される。善いものを作ろうとすることは、創作をしたことのある人には分かってもらえると思うが、大変な苦労を伴う。そして、その作品作りの全責任は作者にある。善い作品を作るためにまた別の作品を模倣することもあるだろうが、その解釈はやはり作者の責任で為される。また自らの作った、音楽なら、テーマの解釈もやはり作者が責任を負うところのものであって、その解釈は決して固定されたものではない。昨日、上手くできたと感じたフレーズも今日になってみるとつまらなく思ったりすることもある。

 こう考えてみると、やはり事実は意志とは独立なのである、その事実が含意しているように思われることも。故にそれが意味だと思われてしまう。たしかに、意味であることはそうなのだが、決して「生の意味とは何か」のような問いを立てようとするときに用いられるような仕方での意味ではない。(ところで、人は何故「意味」に納得するのだろうか)

 作品の全責任とはミクロな意味に留まらない。どのように作るかということだけでなく、それが何かに対しどのような影響を持つかについてもである。

 何1つ定かになっておらず、ただ責任だけがある。

 全てが意志から独立であり、何1つ確かなことはなくだた選択肢だけが、あるいは選択肢すら作らなければならないのかも知れず、その空虚な選択肢に投企しなくてはならない。

 足元に地面などなく奈落だった、というような気分になるかもしれない。

 世界は色彩を失ったのである。

 個々の命題は宙ぶらりんになり事実はまとまりを欠きバラバラになった。

 しかし、世界が色彩を失ったのなら、今度は自らの手で彩色しなくてはならない。

賽の河原で石を積み上げるように、事実を1つに積み上げなければならない。

ただの石ころを積み上げて信仰を示す行為のように。(恐山やイヌクシュク、オボなどを想像して欲しい)

 事実の寄せ集めに調和を与えること、モノクロの世界を彩ること、そうして生を作り出すこと、そこにおいて意志は姿を現す。

このような意志において、1つの作品として生を作り上げようとするとき、生と美しさとは1つになる。美しき生という1つの作品として。

 そして、美しき生はもはや価値や意味を必要としないであろう。価値や意味を求めるというテーマもまた美しき生は表現しているであろうから。だから、価値や意味を美しさが保証として要求することはないであろう。価値があるから美しいのでも意味があるから美しいのでもない。

 美しさもまた価値や意味であると言われるかもしれない。その通りである。

しかし、それは端的に存在しその説明に価値や意味を必要としないので価値や意味の文脈で語る必要もないのだ。

 美しき生は保証を必要としない、ただすべきことは素晴らしき日々を生き作品を作り上げることである。

 意志と共に生きること、それが示すものがハルモニアとなり、素晴らしき日々となるであろう。

        
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